四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



     万華鏡



 蛍屋は基本的には“お座敷料亭”であり、太夫や天神といった色子を置いての春をひさぐ“妓楼”ではないのだが。贔屓の太夫を連れ出して来ての上がった客が、座敷が引けた後、もう遅いからと朝まで一泊してゆくという“出合い”に用いるような小部屋も一応は用意されており。力づくだの脅しすかしだの、余程の無体な真似をして無理矢理連れ込んだような場合でない限り、野暮は言わず、店の者は皆、見て見ぬ振りで通しもする。そういう浮かれた客の他にも、風流なお客が静かな宵や夜陰の中、気の合う者と月を見て過ごしたいと訪のうことも多々あるがため、様々な趣向に合うよう、それぞれに趣きの異なる座敷や離れが多数用意されており、

 「? 久蔵?」

 先に湯を浴びた自分との入れ替わりで、母屋の湯殿へ向かった連れ合いを、わざわざ迎えに出て来たものか。小気味のいい音を立てつつ、手入れのいい玉砂利を踏みしめながら、離れへと戻りかけていた勘兵衛の眸に留まったは。その帰り道の途中、中庭の一角へと立っていた宿着姿の連れであり。敷地の中、幾つかしつらえてある庭の中でも一番広い中庭の、本来は踏み込むべきではないのだろう、小さな浮き島のある池の畔に白砂が敷いてあり。藍色が垂れ込める夜陰の中、おりからの煌月からの蒼い光を吸っての自らも発光しているかの如く、その白さが一際照り映えて見えるものだから。そこに佇む金髪白面の美丈夫は、さながら夢幻の中に立つ、人ならざる者のようにも映って見える。
「どうした?」
 そちらからもこっちの接近には気づいているらしいのに、その場からじりとも動かぬ久蔵であり。顔だけをこちらへ向けた彼が直前まで見やっていたのは、池のおもてを撫でるよに、水平に枝を伸ばしている楓へ、寄り添うように座る小さな祠の影。
「何か祈ってでもおったのか?」
 間を空けて立ち止まり、少しばかり低めた声音で白々しくもそう訊くと。赤い眸がふんと呆れを示してのそっぽを向いた。祈る人がいての そこへと降り積もる信仰心へという“気遣い”はしもするけれど、神仏へと祈ったりすがったりには双方ともに縁がないからで。人斬りが神頼みだなんて何だか順番がおかしいなどと言い訳をしつつ、その実、自分の腕をのみ頼りにして誰へも何にもすがらないだけのこと。そんなところまで似た者同士の二人ゆえ、何をまた下らない戯れ言を言うものかと呆れた久蔵だったらしく、

 「お主こそ、そこの社へ刃を突っ込みおったくせに。」
 「おや。」

 言った覚えはない話のはずだ、が何でまたお主が知っておるのかと。途惚けたように片眉だけを器用に上げる壮年へ、気づかいでかとますます目許を眇める久蔵だったが、
「湯冷めをしてしまう。部屋へ戻るぞ。」
 先に破顔しての くすすと苦笑した勘兵衛が、再び歩みを踏み出しての歩み寄って来たその気配へと、自然な呼吸で促され。軽く持ち上げる格好で心持ち広げられた、彼の腕の尋の中、受け止められるよう掻い込まれ、身を寄せ合っての並んで歩き出している息の合いようは、

 “なかなかどうして、絵になっているじゃあありませぬか。”

 こちらもまた、外で待っていては風邪を引きますよと、若いのを呼びに来たつもりの若主人。そんな流れの一部始終におやまあと苦笑をし、見なかったことにしなくちゃねぇと、踵を返しての取り急ぎ離れへ逆戻り。気の早い蛍が道案内にと足元を飛び交っているのへと、彼らの注意が逸れての時間を稼いでくれりゃあいいのですがねと、とんだ野暮になりませぬよう、ついつい急ぐ彼の足元へも翠の光がじゃれついて。静かな宵は暖かに更けゆくようでございます。





  ◇  ◇  ◇



 5年前、失われた七郎次の左腕の代替としての義手を仕立てた装具師は、今はあいにくと他所の町での仕事へと出向いているそうで。それでも大急ぎの使いをやったので、3日後にはお越し願える段取りになっているとのこと。
「5年も何ともなかったものがねぇ。」
「なに、そんだけの無茶を重ねちまってたってことだろうよ。」
 此処ではずんと楽をさせてもらっていたからねぇと、くすすと微笑った七郎次へ、

 “自分のことだろに、そんな他人事みたいな言いようをして。”

 そんなあんたの容体へ、皆してどれほど焦ったことかと。人の気も知らないで飄々としている色男へ向けて、悩ましげなお顔になっての眉根を寄せた雪乃であったが、

 「…。」
 「おや、ありがとうございます。」

 眠ってこそいなかったが、横になっていた身を起こした彼のなで肩へ、単
(ひとえ)の半纏を掛けて下さった手があって。起きているときの大概は、その気勢を引き締めてもいたものか、ぎゅうぎゅうと引っつめに結い上げられていたその髪を。今はさらりと、うなじを覆うよに下ろしているものだから。すっかり元気になっての ちゃきちゃきした態度・言動を取っても、どこかしらはんなりした嫋やかさが付いて回って優しい物腰に見えるおっ母様へ。寡黙なままながら付き添う久蔵の、不慣れだろうにそれでも甲斐甲斐しく手をかけようとする様子が、見ていて何とも健気でならず。毒気を抜かれた雪乃が、打って変わっての微笑ましげに見守ってしまうほど。

 “こういうのは何という冥利なんだろうかねぇ。”

 七郎次から聞いてた話じゃあ、この蛍屋の店構えさえ一蹴出来よう、小山のような紅蜘蛛とかいう機巧の侍が相手であれ。ものの数秒もかからずに、解体もかくやというほど微に入り細に入りと、その手に握った刀で切り刻んでしまえる練達の君で。身も軽ければ勘もよく、よくよく鍛えられた甲足軽
(ミミズク)や鋼筒(ヤカン)による一個師団を相手にしても、たった一人でのあっと言う間にねじ伏せられる剛の者だとか。そんな剣豪たるお方が、覚束無い手つきで…別段そのままでも構わないのに、しなやかな痩躯を擦り寄せて来、羽織らせた半纏の前合わせの紐を、えっちらおっちら。ご当人もまた、侭にならぬ筈な右手の先まで動員しての、何とか結ぼうと苦戦しており、
『それが弓を射るときの肩当てなどといった武装装束ならば、案外と手際よくまとえるのだがの。』
 ああ、こういうところも勘兵衛様と似ているなぁと。着物や靴の紐を結ばせれば、三度に一度は縦結びにする御主を思い出しながら。手をかけられている張本人の七郎次までが、微笑ましげに目許を細めてしまっている始末。
「〜〜〜。」
「久蔵殿。」
 片方の腕をギプスで封じられているのだから、紐を結ぶなぞ土台無理な話であり。むうと口元を曲げたのへ“もうそのくらいで勘弁してやってくださいな”と、何だか妙な順番なれど、同じようにこちらさんも腕を吊っている恰好な七郎次自身が、諦めてやってくれと宥めてやれば。
「…。」
 致し方なしとばかり…それでも、まだ未練は残るのか。向かい合っていた母上の懐ろへと白い手を伏せ、きゅう〜んっという鼻声が聞こえて来そうな上目遣いになって見せるところが、

 “あれ、どうしよう。あたしにまで愛らしく見えてしまったよぅ。////////”

 七郎次が可愛いの愛しいのと誉めそやするのは、一種の身内による贔屓目だと思っていたのにね。意識のないままだったお仲間に付き添っていた間中、ずっと落ち着き払っておいでで、冷然として見えてたはずの久蔵の白い横顔が。今のは雪乃へも何とも愛らしく見えたからこれはびっくり。一途な想いを傾けているのだと、それが判ったからこその把握というものだろかと、噛みしめていたのも束の間で、

 「…っ。」
 「? どうされました?」

 今度のは愛らしいなんてものじゃあない。同じお顔に不意に冴えての尖った気配が満たされて。それと同時に、障子戸の向こう、鳶でも渡ったものか黒々とした陰が横切ってゆき。

 「追っ手は来ぬか?」
 「追っ手?」

 七郎次が繰り返すように訊いたのへと、こくりと頷き、見やったのは庭先の小さな稲荷の祠。山水は大仰だが、それなりの風景を象ったそれだろう、小さな池の中の畔には枝振りのいい楓が白砂の敷かれて浮き島のようなった辺りへ配されてあり。その古木の傍らに、さりげなくも身を寄せる小さな小屋のような祠がある。
「差配の屋敷にもあれがあった。」
「いやあれは商売の神様で…。」
 どこの店にもあろう稲荷の祠。怪しむものじゃあありませんと言いかけた槍使い殿の言を遮った久蔵から、
「女将が据えたのか?」
 不意に矛先を向けられて、
「ああ、いえ。元からあったような。」
 うら若き女将が慌てたように応じて見せる。元は人気の太夫だった雪乃は、先代のやはり女主人から此処を引き継いだ身だそうで。よって、あちこちに彼女の趣味を利かした手を入れこそしたものの、この店の構え自体は彼女の手により建ったものじゃあない。そうと訊いての久蔵が言うには、

 「警邏のかむろが入れぬような場所には、
  番所に通じる“聞き耳”が置かれてあったと聞いている。」
 「…っ。」

 随分と省略された言いようながら、緊迫の張りを感じさせる語調だというのはありありとしていて。
“それって…。”
 もしもあそこへ彼が案じたものがあるのなら。自分たちの動向、差配のそういう手配を知る“後継者”がいたとしたなら、その者へは筒抜けかも知れぬと、それは手短な言いようで伝えての。どんな刺客がやって来ようと恐れてはおらぬが、警戒した方がいいのではないかと訊いて来た彼なのだろう。それへと、
「いや…ちょっと待って下さいな。」
 絹糸のような髪を下ろしたままという風体なので。こちらさんの方はその端正な表情を尖らせても、さほど…凶悪さを帯びての剣呑そうには見えないものの。それでも真摯な鋭さをその横顔へと孕ませての立ち上がると、七郎次が濡れ縁から庭へと降り立ち、祠へと足を運ぶ。後に続こうとした久蔵の気配を、首から提げてはいない右手をちょいと挙げるだけで制してしまったのは、此処に居着きの幇間が何気に覗き込む方が、周囲からの不自然さを買わぬと思ったかららしく。
「…おや。」
 一応の形式、祠の前にて膝を折っての屈み込むと、手を合わせての拝んでから。観音開きの格子戸へ、そおと手をかけ開いてみると。それなりの拵えで御神体代わりのお札を収める白木の社のようなものが据えられているその台座の足元に、何やら小石のようなものが見え、
“…これは。”
 そろり、手を伸ばして摘まみ上げれば。こんなところには不似合いな、明らかに機巧の仕掛け、鋼の何かしらであると判る、小さな塊ではなかろうか。ただ、
「…。」
「大丈夫。もう、機能してはないようですよ。」
 摘まみ上げたそれを手に、元いた濡れ縁までを戻って来つつ、七郎次がやんわりと微笑う。久蔵が言う“聞き耳”だとすれば、これは無線式の集音発信装置らしかったけれど。
「アンテナになってたらしい“尻尾”を切られていますから。」
 どこぞにつなげるものではなくの、そこから宙へと電気信号を送り出す…横文字で言う“ワイヤレス”という仕組みであったろに。その尻尾が付け根からすっぱりと切られている上、こちらは動力源としての陽式蓄電装置への導線も断ち切られている。どちらも刃物で切ったらしき鋭い断面であり、
「どっちも切り口が新しいが、あの祠、アタシが覚えているうちも あまり弄られちゃあいなかったのでは?」
「ええ。周りを掃除するくらいかね。」
 雪乃が是と、事もなげに頷いて見せた。客商売をしている以上、神仏を蔑
(ないがし)ろにしちゃあいけないからと手入れはしたが、据えた御方から正式に引き継いでもないのだし。そもそも、こちらさんもまた その身ひとつで稼いでいたという自負の強かった彼女なだけに、生まれてこの方、神様にすがった覚えはあまりない。だってのに便乗するのは却って図々しいかと思ってのこと、
「わざわざのお参りなんてのは構えないでおいたんだけれど。」
 中を覗くなんて、それこそ罰が当たると思ってやっちゃあいない。店の者たちも、滅多なことじゃあ扉を開けたりなぞしちゃあいないと思うけれどと。だからこそ、そんな不審なものが回収もされずに入ったままになっていたのであって。だが、

  ――― じゃあ誰が? 気づいた上で、こんな処置を?

 手のひらの上、ころんと載ってるばかりで物言わぬ小さな機械へ、その視線を落とした七郎次と、戻って来た彼を見やっていた久蔵だったが、
「そのような物へと目端の利く輩が、この最近に此処へ上がったと言えば。」
「そりゃあ、先だっての騒ぎの時に足場にさせてもらったアタシらくらい…。」
 言いかけてハッとし、そういえばと七郎次が思い出したのは。一番最初、神無村へ向かう運びとなった彼らが、浪人狩りに追われて此処へと訪のうた晩のこと。五年振り、いやさ十年振りの邂逅となった御主だという感慨に呑まれかかっていた七郎次と向かい合い、この中庭を眺めながらの会話を交わした蓬髪の誰かさんは、周到老獪、用心深さにおいては隙なしという身ではなかったか。ただでさえ追われていた身だったのだから、このような歓楽街に情報収集用の何かしらは付きものと踏み、汎用性能の及ぶ範囲だけを浚うくらいはしたのかも。
“…あのお人らしいねぇ。”
 しかもその上、店の者らを怯えさせても詮無しと、黙っていたに違いない。そんなこんなと目串を刺してのくすぐったげに微笑った七郎次から、久蔵にも何か伝わったのだろう。彼もまた仄かに目許を伏せて、
「…戦さ絡みには目の利く奴だの。」
 そんな言いようをしたものだから、
「何ですよう、お二人だけで判り合って。」
 置いてけぼりの女将が駄々をこねて見せたほど。いや何、盗聴器があるにはあったが、誰かが既に壊してくれていたのだよと。事実だけを伝えてのそれから、

 「でもまあ、これが作動していたとしても。
  今の段階じゃあ、アタシらへの脅威がかかるって恐れはないと思いますがね。」

 ここ、虹雅渓の差配の養子が実子だったと判明したのとほぼ同時、無頼の者が襲い掛かった騒動によって、もともとあまり健康と言えない容体だったものが亡くなってしまった先の天主に成り代わり。新しい天主としての名乗りを挙げた右京が、さあ私なりの治政を始めるぞというその幕開けのセレモニー代わり。野伏せりの横行に困っていた辺境へ浪人だった侍たちを召し抱えての配置をし、彼らの働きぶりを見聞するための“行幸”の途中にて。その野伏せりたちの急襲を受け、荒野の只中へ弩級戦艦ごと撃沈された…とされている騒ぎから、もはや1カ月以上が経っていて。貧しい層への施しをしたり、交易の町には付きものとはいえ、場末には流れ者の浪人がそのまま住み着いていて物騒だったのが、少しは改善されたのへ。お若いのに目端の利く、行動力のある惜しいお人を亡くしたと、多少は惜しまれてもいたらしかったが、

 「癒しの里の賑わいは、そのまま景気の動向も映してますからね。」

 自分には直接関わりのない遠いところでお偉い誰ぞの首がすげ代わっただけ。だから、亡くなられたことをお気の毒だと悼みはするがそこまで…と、町の者にしてみりゃあ、せいぜいそんな感慨しかないのでしょうよと、数日前にも此処へと訪のうて、その辺りを探っていた七郎次は肩をすくめて笑って見せる。
「この虹雅渓は、元から天主の影響は直接の目に見えてまで及んじゃいないような土地柄でしたから。」
 歴史が浅く、恐らくは彼が初代だった“差配”は、自力の叩き上げでその影響力を広め、存在をアピールしての地位を得たような人物だったから。此処の住人たちにしてみれば、より都会の“都”におわす“天主様”とやらいう御方がいるらしいよ、沢山の町の差配を膝下に置き、世の中を動かすほどの権力をお持ちの方らしいよ…というくらいの認識しかないよなものだった。よって、差配の養子だった右京がそんな御方の実子だったらしいと言われても、あんまりピンとは来ず。むしろ、ウチの右京様にそんなご大層な肩書がついてしまうのかい?という順番だったとか。
「…。」
 差配の用心棒だった久蔵ではあるものの、あまりに間近にいたのとそれから、経済形態云々なんてな“世間の仕組み”への関心が皆無であったため。そういった権力相関図なぞ、当時からもよくは判っていなかったらしく。二人からの説明に、実に素直に聞き入っているばかりであり、
「土地によっちゃあ“ご領主”にあたるのだろう差配からだって、所謂“支配”を受けてた訳じゃあありませんからね。」
 とは、雪乃の言で。様々に税を納めてこそおりましたが、それらはあくまでも治安維持や電気水道の供給維持のための必要経費のようなもの。そもそもからして、神無村のように全員で手掛けるただ一つの共同作業にて成り立っていた処じゃあなし、野伏せりに一切合切持ってかれたら、そのまま住人全部が貪する…という生産形態の土地じゃあない。工人や職人という“物作り”を生業とする者もいなくはないが、何と言っても流通の中継地であり、言わば“商い”の町であり。よって、右京の死へもさほど大きな動揺は続かず、
「綾磨呂公が…こちらは“都”の生き残りや縁故からの万が一の訴追を恐れてのことではありますが、姿を晦ましていることの方が問題なくらい。」
 差配無き混乱を除けば、個人差・格差はあれど、さほど食い扶持に困らぬ景気のいい土地柄としての賑わいに、さしたる変化はないらしいと来て。

 「人間てのは、なかなかにしぶとい生き物ですからね。」

 心や感情を持っているがため、苦衷に遭えば体は無事でも気持ちの上での痛い想いを抱くこともある。それが体へ跳ね返り、胸が詰まったり胃が痛くなったりもするけれど。それでも、歳月が経てば…体の傷と同様に癒えたり、新しい記憶による上書きの下へ忘れたり出来るから。

 「そうやって奥行きってものを広げながら、打たれ強くもなってゆくところが。
  物によっちゃあ図々しいながら、それでも逞しいじゃあありませんかvv」

 ほんの数年前、ずんと十年前。命に代えても護ると誓った御主と引き離され、そのまま時代や時間からも置いてかれた深い深い痛みを。今は微笑って懐かしいと語れる七郎次がそれを言うと、尚のこと、説得力があるようで。

 「…そうだな。」

 ぽつり答えた久蔵が、そのまま目許を和ませれば。お返事がくるとは思わなんだか、おやとこちらは目許をしばたたかせたおっ母様。そのまま“くすす”と甘く微笑って。濡れ縁まで出て来ていた次男坊のふわふかな綿毛頭をくしゃくしゃと、愛しい愛しいと撫でての掻き回してくださったのだった。





            ◇



 あれほどの高熱を出して引っ繰り返ったことが嘘のように、すっかりと持ち直してしまった七郎次ではあったれど。だからと言って油断は禁物、動き回ることで体が活性化すれば、大人しくなった炎症とやらが再び火を点けられての熱を出すやも知れぬからと。玄斎医師殿からは勿論のこと、久蔵を初めとする雪乃や正宗、電信で経過を報告した先の平八からさえ、大事を取りなさいと口々に言われ。ご当人には已なくの運び、横になって大人しくしておれとの厳命に従うこととなったは翌日のことで。不自由があるとすれば、あまり使うなとの封じをかけられた左腕を吊り下げていることくらい。それにしたって痛くはないのだ、煩わしいばかりで面倒なだけ。そんなこんなでむむうと不満げに膨れてしまう七郎次へ、
「…。」
 さりとて、口下手な自分では、さして面白い話をしてやることも適わずで。どうしたものかと、それでも枕元にとほんと座っておれば。そんな久蔵のお膝へ置かれた白い手を、床から伸びて来た手が掴む。
「?」
 雪乃も忙しい頃合いなのか、ここは久蔵に任せての店の方へと戻っており。今は二人きりの昼下がり。障子越しの庭からの淡い光に柔らかく満たされている中、何か所望かと覗き込めば、優しいお顔が ふふと微笑い、
「久蔵殿も退屈でしょうに。」
 横になったままで見上げて来ての、そんな風に囁いて。神無村にいれば、薪割りだの水汲みだのといった日課があったし、そろそろその兆しが訪れようとしている冬支度への算段も立てなきゃならなかったので。それへの用意にというお仕事も、何かしらあったかも知れない。表情が乏しいせいで愛想は悪いがそれでも、罪のない頼まれごとへは律義に応じる、案外と素直な人性をしている久蔵なので。こんな風に手持ち無沙汰でぼんやりしていなくとも済んでおろうにと、そんなところを案じてくれている七郎次であるらしく、
「…。(否)」
 ゆるゆるとかぶりを振る次男坊へ、そうですか?と。それこそ、そんなやりとり自体が無聊を慰めるものであるかのように、いたわるような優しさで頬笑んだおっ母様。眩しいものでも見るように、目許を細めていたものが、
「…そうそう。」
 何をか思いついたらしく、その目許を瞬かせ、
「体が鈍ってしまうというなら、ここの敷地の中を…屋根の上も含めての駆け回って来てはいかがです?」
「?」
 だって久蔵殿は、そんな風にバランスが取りにくかろう御身であっても、ひょいひょいと梢渡りがお出来になる身、と。ほんの先日、そんなとんでもないことをしていたと暴露されたる無茶の一環を持ち出され、
「〜〜〜。////////」
 事実なだけに言い返しも出来ず。う〜と頬を赤らめたところがまたかあいらしいったらと、くつくつ微笑ったおっ母様。そんなところに遠く聞こえて来たものがあり、二人そろって宙空を見やる。この里、いやさ虹雅渓に住まう者にはお馴染みの、三時を示す時の鐘の音。朝の始業と夕方の終業と、その合間の正午とこの三時のとの4つの鐘が鳴るのは、もとはと言えば…この虹雅渓の黎明期、町の外延の警備を担当する警邏部隊の交替の合図か何かであったのらしいが、他の住人へも便利な間合いに鳴るそれだからと、そのまま続いている代物であるらしい。そして、
「…。」
 すっくと立ち上がった久蔵だったのは、
「水を汲んでくる。」
 この店の裏手に、伏流水とは別口の地層からの湧き水があふれている小さな泉があって。それが大層美味なそうなので、七郎次の薬の時間になるとそのたび、彼が新鮮なところを汲んでくるのが、昨日からのささやかな日課となっており。そういう“日課”の話をしていた折だったこともあって、そこまでしてくれなくともと制すのも何だからと、
「すみませんね。」
 ここは素直に行かせようと、お手間を取らせてどうもと眉を下げたおっ母様に見送られ、小上がりになっている框を降りると、土間に据えた水瓶の縁に置かれた竹の筒を取り、瀟洒な組木細工の施された建具がはまった格子戸の入り口から外へと出る。ここへも秋の訪のいは静かに寄り来たるものか。庭木の中、落葉樹が少しずつ色づいているし、陽の色合いにも心なしか金色が滲んでの、どこか懐かしい風合いに染まりつつあり。昨日案内されて覚えた通りに庭を横切り、母屋の裏手、店構えとの間にあたる小さな空間に、それらしく岩を組んでの湧き口となっている泉を見つけると。ひんやりと冷たい清水へ持って来た水筒をひたし、半ばより多い目に汲み上げる。料理などへと使う分は、ここから調理場へ水道を引いているとかで、他には使う者とてないらしいのに、きれいに清められてあるところが、女将である雪乃のどこまでも行き届いた心遣いを忍ばせもして。
「…。」
 さてと戻りかかった久蔵だったが、

 「七郎次さんは、このまま此処に残って下さるのだろか。」

 そんな声が不意に聞こえて、ハッとした。若い女たちの声であり、さほど潜められてもいない、至って伸びやかな調子のもの。どうやら息抜きにと、客や仲居頭の目が届かぬ物陰に運んでいた仲居たちであるらしく、宵を迎えて店が忙しくなる前のほんのひとときに、何ということもない会話を持ち出して和んでいるらしい。日頃の久蔵であるならば、そのような他愛ない会話なぞ、気にも止めずにやり過ごしたろうに。そんなおしゃべりの声が、妙にくっきりした形になって届いたのは、七郎次という名への反応から、
「…。」
 聞くともなく聞こえていた声へ、こちらからも意識をしたことでその輪郭が鮮明になったから。さすがに5年もいたという場所柄と、彼自身のあの屈託のない気性とが、何もしなくとも人を惹き寄せるらしくって。戻って来ているという彼へ、わざわざ訪のうての会いにくるお顔は引きも切らずであったりし。怪我をしていての治療を待つ身、あんまり騒がせちゃあいけないと、クギを刺してはいるんだがねぇと、困ったように苦笑った雪乃だったのは。どんなに言い聞かせても、幼い下地っ子やよそのお店の禿
(かむろ)っ子辺りは“やさしいあにさん恋しや”でついつい運んでしまうらしいので、無理からは止められないというのとそれから。
『シチロージ兄さんとご一緒の御方はどなたです?』
 煙たがる訳でもなくの、だが、誰ぞが訪のうたからといって特に席を外すでもなく、介添えのように傍らにいる、匂い立つような玲瓏な美貌の男衆への評判で持ち切りになっているからで。中には…前の差配の傍らに陰のように付き従っていた寡黙な用心棒を、覚えている者もいないではなかったが、それならそれで、
『アヤマロ様の命で付いておいでなのかも知れぬ。』
『ひや、シチロージ兄さんて、そんな身分のお人だったのかい?』
 …あらぬ噂まで流れかかっていたようだったが、それはさておき。

 「何だよう、薮から棒に。」
 「だって。聞いた話じゃ、もうお仕事とやらは済んだんだろ?」
 「だったらサ、また此処へ戻って来てくれるんだよね?」

 彼女らにしてみれば、ここにいるのが当然の七郎次なのであり、それが“戻って来た”という格好になってもいるのだろう。そして、

 “…戻る?”

 そんな彼女らが紡いだ“道理”に、思わぬ間合いで胸を突かれたような気がした久蔵で。自分が七郎次と出会ったそのときは、ここを離れての島田や他の侍たちと一緒にいた彼だったから。それが自然なのだと思い込んでの疑いもしなかったのだが、彼の背景を知ってもなお、七郎次は勘兵衛の傍らにいて当然だと思い込んでいた。命懸けてでもお護りするとの誓いを立てたという元・副官であり、そんな誓約は昔の、戦さの間だけの話だとしても。互いの人性というものへの理解も深く、敬慕や慈愛の情だって厚いまま。そんな彼らにしか見えなんだから、一緒にあって当然と、疑いもしなかった久蔵だったのではあるが。

 「…。」

 ここへと帰って来ての、それまでの生活の続きへ戻るという選択肢も彼にはあるのだと。言われてみれば それもまた、彼には自然な先行きの1つなのだと、今になって思い知った久蔵で。ということは、

 “シチが、一緒に居ない?”

 自分には想定外もいいところの、そんな将来も有り得るのだと。いきなり するりと差し込まれた鋭利な切っ先の、いやに現実味のある堅さと強さに目が眩む。

  「……。」

 雲を踏むよな覚束ぬ様子をまとったまま、いつの間にだか自分でも判らぬうちに、戻っていた離れからは人声がして。自分が席を外したその間に、誰ぞが訪のうての話が弾んでいる模様。

 「…本当だよ。勘兵衛様とだって渡り合えるほどもの腕前なんだから。」
 「そうかい? だけど、可愛いお人じゃあないか。」

 此処へと来るまでの道中、途中からあんたが意識をなくしたもんだから。そりゃあ心配なさってのこと、思い詰めたような真摯なお顔のままで、傍から離れようともしなかったって、玄斎センセーが話しておいでだったもの。おや、それは初耳だ、嬉しいことを教えてくれたねぇ。

 「…。」

 七郎次と雪乃が、どうやら自分のことを微笑ましいお人だと話のネタにしているらしく。柔らかな語調での会話には、だが、先程耳にした女中たちが口にしていたような、行く末の何やかやは含まれてはいない。そういえば…と思い出したのが、こうまで気安い接し方をしている雪乃は何故だか、ずっと…七郎次のこれからというもの、一度も話題に上らせはしないでいる。5年も世間から隔絶されていたという、一種 残酷な眠りから目覚めての末、しばらくほどは呆然としていたという七郎次を、自暴自棄にならぬよう支えてやった気丈夫な女傑であり。それらは下心があってのものではなかろうけれど、

 “…。”

 先の昏睡状態から一度目覚めた七郎次が、彼女を見ても落ち着かず、久蔵の顔を見てやっと緊張を解いた昨日のあの時。悄然と肩を落としたのがあまりにも痛々しかったことから、彼女の心中、そういうことへとことん疎いはずの久蔵にも察せられたほどであり。こんなにも多くの者から望まれている七郎次であるということ、まざまざと思い知らされてしまって、

  「………。」

 軒の手前に佇んだまま、何かしらの物思いに立ち尽くす。奇しくもこの店は、あの怖いもの知らずで豪胆老獪な壮年殿が、元副官へ“世の中には切れぬものがあるのだと思い知った”と、自分を攫った天主をかばった早苗へたじろいだ折の、人の心の綾というものの複雑さをつい零してしまったところでもあり。

 「………しち。」

 照らしたものを目映い金色に塗りながらも、そのものはか弱い秋の斜陽を浴びて。その痩躯がいやにしょんぼり か細く見えていた、秋麗のひとときだった。






            ◇



 『え? あした一番で村へ帰る、ですって?』

 あまりに突然の申し出へ、それじゃあアタシもと、肝心な病人までが床から起き上がりかけたほど。それを“馬鹿を申すな”とたったの一言にて押し止め、

 『ここには人の手がたんとあるから。』

 だから、自分は居ても居なくとも同じ。むしろ要らぬ手を焼かせるだけかも知れぬと、懐ろに自身の右腕を見下ろしてから、そんな言いようをした久蔵であり。
『そんな…。』
 丁度夕餉の席でのこと。給仕役にと居合わせた雪乃もまた、大概のことは自分でこなしている久蔵ではないかと、そんなの納得がいきませんと言いたげな気勢でもっての、反駁しかかったものの、
『向こうには、暇を持て余しておろう輩が待ってもおろうから。』
 そうと付け足された一言へ、ああ…と七郎次の想いが至る。久蔵が持ち出した“誰かさん”は、物事を人に任せるという意味での心の尋もまた、ちゃんと持ち合わせているお人ではあるけれど。それはそれとして…手持ち無沙汰な久蔵が、ふと、勘兵衛に逢いたくなっても無理はなかろうと、そんな方向へと想いが至ったのであり、
『俺や島田に逢いたくば、きちんと治しての養生を済ませてから戻って来ればいい。』
 ちょっと高飛車な文言ではあったれど、そのくせ…目許を伏せての言いようだった久蔵へ、
『…はい。』
 ああいけない。明日にも来るという装具師からの手当てや何やを受ける折、傍らにいて欲しいなと思ってた気の弱さ、この子に嗅ぎ取られてしまったのかも知れぬと。今度は自分への反省しきりとなったおっ母様。ちょいと沈んだようなお顔はさすがに隠し切れなかったものの。それ以上は引き留めようとしないまま、次男坊の意を酌んでやることにして。翌朝の早いうちに出立する彼を、土産を山ほど持たせての見送って下さった。

 「…。」

 地下水脈経由の進路を選べば、式杜人らの住まう結構な広さの“禁足地”を通り抜けた末に、荒野の取っ掛かりに入ったところで陽が傾きかかる。気温が急激に変化するせいか、夜中は強い風嵐が吹き荒れるのが常であり、それが虹雅渓への自然の要衝にもなっている土地柄で。そんな中、ただ一人で帰ることとなった久蔵は、だが、そんな道中を心許ないと思っている余裕さえないようで。何にか思い詰めての、ずっと考え込んでいるばかり。

 “…。”

 野伏せりとの戦いの最中にあっては、準備期間からのそのずっと。その日その日をこつこつと、数えもっての1つずつ積んで過ごしたようなものだったし。新しい天守となって襲い来た右京との決戦の最中なぞ、わずかな一刻ずつの積み重ねの中、生を繋ぎながら勝ちを拾うことばかりに構けていた身だったから。足元やすぐの目先のことばかりを優先して考えて、それへとだけ集中していた。思えば、それ以前にしてみても、そうやって命を繋ぐような生き方しか知らなかった。だから、今の今まで気づかなかったこと。

  ――― 明日のその先、来年のこととか数年後のこととか。

 親掛かりではない身の上の者なら、まずは考えなければいけない“見通し”というもの。だのに、一度だって真っ向から向かい合ったことがなかった自分だと、今になって思い知って。もしかしたら何か大切なものが欠けるかもしれない“明日”に、今頃気づいて息を呑む。

 「…っ。」

 向かっていた先から、こちらへとやって来るものがあると気がついて、暮れなずみかかっていた金色の大気の中、目許を眇めるようにして見やったその先。自分が乗っているのと同じ型のホバーを確認し、はっとして速度を落とす。風防のない剥き出しの操縦席に立っていたのが、見覚えのある人物だったからでもあって。

 「…久蔵。」

 相手の側も速度を落としての、互いが目視出来る距離にて立ち止まる。操縦していたのはやはり、いつもの長衣に砂防服を重ね着た姿の勘兵衛で。思わぬところに沸いて出た相手へ、これはさすがに驚きを隠せず、
「どうして…。」
 口を衝いて出ていた疑問の声が届いたか、
「なに、七郎次が平八へ、電信で告げて来おってな。」
 やや声を張っての言葉を返してくれた壮年殿。動力を停止させ、機上から降りて来た相手を、こちらのデッキで待っておれば。相変わらずの軽快な、だが、威容はそのままの重厚な身ごなしで。見る者が見れば、軍人の面影を色濃く残した所作だと判る切れのよさにてきびきびと。こちらへあっと言う間に移って来てのそれから、

 「…。」

 そろそろ吹きつけ始めた砂嵐から、久蔵の痩躯を護るようにと、マントのような外套でくるみ込むよに抱きすくめてくれて。まだそんなまでの間柄ではない筈なのに…それが当たり前の呼吸になっているような振る舞いへ、だが、

 「…島田。」

 掻い込んでくれた懐ろの深みは、衣紋越しにも筋骨の充実が伝わって来て…頼もしくて温かで。風にひるがえる濃色の蓬髪も、砂ぼこりへと少しほど眉を寄せていたいかつい風貌も懐かしい、そんな彼の姿を目にし、どっと全身から力が抜けたのは。思ってもなかった、意識しないままの緊張をまとっていたからに他ならず。
“…。”
 心細いとはこういうことかと、それへも気づいた久蔵であり。この彼や七郎次という、頼もしくも心の尋の深い彼らに囲まれて過ごしていたから、安んじるあまり気づかなかったことだろかと。不意に頭をもたげたもの、これまで接したことのなかった未知なことへの戸惑いと不安へ、心許ない想いというもの、初めて抱えてしまった自分なのだと思い知る。
「んん?」
 妙に大人しい若いのへ、どうした?と目顔で問う勘兵衛へ、
「これからのこと…。」
 ぽつりと口にしかかって。だが、

 “…これから?”

 形にするその端から、胸に沈んで閊え、重たい澱になってゆく言葉。形の無いものである筈な“想い”からの衝撃へ、ついのこととて言葉が詰まった久蔵であり。
「…。」
 打ちのめされての口を噤んでしまった彼だったのだが、
「これから?」
 口数が少ない青年なのは常のことと思ったか。あまりに短い一言を、それでも拾った勘兵衛が、ふむと思案を巡らせ始めたものだから、
「…。」
 そんなつもりではなかったのに、それでも言ってしまったものはもう戻せない。固唾を呑んで身を竦めておれば。

 「そうさな。神無村を出てのそれから、ならば。
  未だ行ったことのない土地へ運ぼうかのと思うておるが。」

 何ともあっけなく、口にした勘兵衛へ、ああこの男もかと妙に寂しいものを覚えてしまう。それが堅実なものかどうかはともかくとして、自分の向かう先というものをちゃんと心積もりしている彼であり。具体的な当てはなくとも、先行きという行動の方向を決めていて動じないのが、世慣れている者ならではの強かさであり。それに引き換え、自分はどうか。

 「…。」

 勘兵衛と出会うまでのずっと、空を見上げては停滞していた自分との、これこそが大きな差なのだろう。妙な言い方になるやもしれないが、襲い来るものを待っての生を繋ぐよな、やはり何かへ頼るよな生き方なのではなく。自身の足で立って、歩き出しての先を見据えるということ。そんな基本をこれまで思いもつかなかった自分を、そうまで奇矯な存在だったのかと、今なら断じられもし、その事実に打ちひしがれる久蔵で。

 「……。」

 この男もまた、去ってゆくのかと しみじみ噛みしめておれば、

 「無論のこと、お主も連れてゆくからな。」
 「……………え?」

 思わぬ言葉が頭の上から降って来た。離れがたい感触と温みの逞しい胸元から、それでも少しだけ頬を浮かせて。ゆっくりと顔を上げれば…その先で、何を途惚けた声を出しておるかと、深色の目許を細め、口許をほころばせての、渋く咲笑う勘兵衛であり、
「お主とは例の約定があるであろうが。」
「あ…。」
 お主がその気になっての立ち合いを持つその日までは、済まぬがこちらへ付き合うてもらうからなと、

 「何せ儂はお主のものとなったらしいから。
  となれば、勝手に離れて過ごす訳にもいかぬ。そうであろう?」

 我儘を言うようで申し訳ないが。そうと言って微笑った勘兵衛が、久蔵の身の裡
(ウチ)にある何かしらをお見通しでいるようだということ。何とはなくのこちらからも、感じられた若いのでもあったけれど。

 「……………。」

 うむと。力なく頷いたそのまま、頼もしい懐ろにお顔を埋め直した久蔵。そこから熱を情を分けるかのように、掻い込んだ細い背をやさしく撫でてくれる大きな手へ身を任せ、吹きつける砂嵐の奏でる風籟に紛れさせ、深い深い吐息をついてしまう。ぶっきらぼうだが、だからこそ頼もしい温かさに身をゆだねての。もう何も考えたくはないという、そんな意思表示であるかのように…。






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 *文中に浚っております“第七話”にて、
  中庭に楓なんか無かったとのツッコミが入ること請け合いでしょうが、
  すみません、このシリーズのみの捏造ということで。
  それと、外科医師殿の名前をやっと付けました。
  やはり無いというのは不便だったものですから。
  玄斎さんです、どかよろしく。
(こらこら)

 *いきなりどんと話が進みましたが、つまりはそういうことです。
  ウチの久蔵殿がうっかり忘れていたこと、と言いますか、
  彼は終戦からのこっち、
  自分の先行きのことなんて、一度だって考えちゃあいなかったと思うので。
  もしも生き残ってしまったならば、
  次にはその辺りと向き合うことになるんじゃなかろうかと。